れぷすたぶろぐ

思ったことを適当に書く

『ダイアローグは眠れない』

こんにちは。Repsterです。

唐突だが、駒場演劇を見たことはあるだろうか。1号館前の広場でよく立看板が置かれているのを見たことがある人は多いと思うが、実際に観に行ったことがあるという人はあまりいないと思う。

今回は、その駒場演劇について書こうと思う。

1. 駒場小空間

まずは、駒場演劇の多くが利用する、駒場小空間という施設について書くところから始めよう。

駒場小空間とは、KOMCEEから生協購買部の方向にずっと行った先、和館の隣のなんともよく分からない大きな建物のことである。

現在一般使用が行われていないため、普通は観劇する以外で中には入れないが、その中は既設の舞台が一切存在しない、文字通り"何もないただの空間"であり、演劇はそこに舞台を作るところから始まるのである。

2. 『ダイアローグは眠れない』

なぜこんな話をするのかといえば、つい先ほど劇団綺畸(きき)の冬公演、『ダイアローグは眠れない』を見たからである。

いや、この劇に関しては「見る」というのは不適切かもしれない。正確には、『ダイアローグは眠れない』という劇の可能性の1つを観測した、と言うべきだろう。

結論から言えば、私が今まで見てきた駒場演劇の中では抜群の完成度で、非常に綺麗な劇であった。それは別の言葉で言えば、初めて私が真面目に考察することのできる演劇であったということである*1。確かに動きが少なくはあったが、逆にそれゆえ脚本に目が行く劇であった。ここでは、脚本について主に書いていきたいと思う。

 

軽く内容をまとめたい。ここからはネタバレを含むので注意してもらいたい。しかし、ネタバレされてもなお、この劇は魅力を失わないだろうと個人的には思っている。

物語そのものは、春に、平凡な大学生の土屋中(つちや・あたる)が優木春陽(ゆうき・はるひ)と出会うところから始まる。土屋はバドミントンサークルで優木と再会し、なんだかんだ付きあうこととなる。土屋は他にも、物理科学研究会というサークルに所属するが、そこでは入会時に"ハイゼンベルク協会"というところに名義を仮登録する必要があり、土屋はそれを了承する。

季節が夏へと変わったあと、土屋は恋人と記憶がズレていることに気がつく。

いつのまにか土屋はハイゼンベルク協会に本登録されており、さらにその協会の男から「世界の終わり」を食い止めるように言われる。後に分かるのであるが、この"ハイゼンベルク協会"とは、世界の終わりを防ぐため活動している組織であり、それを食い止めるための手段が「ありふれた学生のありふれた恋」であることを突き止め、土屋に接触してきたのである。

このあたりで、物語の大きな鍵となるフレーズが出てくる。

  • 「世界にはいくつもの側面があるが、我々は1つの側面しか見ていない」
  • 「1つの物語が終われば、世界が終わる」

前者のフレーズは量子論を援用しながら語られる。この世界にはありえたはずの可能性が複数存在し、それらの重ね合わせによって我々の世界が存在している。しかしながら、我々が観測することが出来るのはいつも可能性の1つでしかないことを表している。

後者のフレーズは眠ることと繋げて語られる。眠ることすなわち目を閉じることは、1つの物語の終わりであり世界の終わりである。ということは、次に目を開けたときには、また新たな物語、新たな世界が始まるということである。

土屋が恋人と記憶がズレているのは、既に世界が新たなものへと変化しており、恋人がすでに優木でなくなっていたからであったということが示唆される。

秋のあいだに世界の終わりを食い止めるようにと言われながらも土屋は何もしなかった。そうして、春夏秋と順々に季節が終わり冬も終わろうとしたとき、すなわち、世界がすべて終わろうとしたとき、恋人がどこかへと消えた土屋は、ハイゼンベルク協会の男から最終手段として、今の世界を終わらせてまた新たな世界を始めることを頼まれる。その具体的な手段は、土屋が目を閉じ、また開くということであった。

 

ざっとまとめるとこんな感じだろうか。私の了解の範囲内での話にすぎないため、若干の差異があるかもしれないが、これを元にいくつか考察を加えていきたい。

 

3. 世界を改変する、ということ

土屋というありふれた男のありふれた恋に世界の命運が掛かっているという設定は、まさにセカイ系だといえる。(cf. セカイ系 - Wikipedia)

しかしながら、この物語はただのセカイ系には終始しない。土屋は世界の命運が自らの恋に委ねられていると告げられてなお、その忠告の抽象性のせいで何も行動しなかったからである。結局、世界をそのままに救うという選択肢は失われ、結局土屋は、その世界を終わらせてまた新たな世界を始める、すなわち、世界を改変することとなる。

ただし、その改変に際しては、(例えばまどマギのような)自らを犠牲にするといった、大きな行動は必要ない。ただ、土屋が、目を閉じて、開くだけなのである。

確かに劇中で、目を閉じることは世界の終焉であり、開けば新たな世界となることは繰り返し語られる。だが、土屋はそれを受け入れていない。つまり、私たちにとって目の開閉は世界改変のトリガーであっても、土屋にとってその行動は世界改変とは何も関係のない行動なのである。これは、"ゲーム的"ではないだろうか。

 

どういうことか。さやわか氏は『キャラの思考法』の中のコラム『ゲームのように』(P119-P129)で興味深い指摘をしている*2。長くなるため直接の引用はしないが、おおよその内容は以下のようになる。

このコラムでは『涼宮ハルヒ』シリーズのうち、特に『涼宮ハルヒの消失』を論じたコラムである。『消失』は「パラレルワールドもの」SFといえる物語で、ヒロイン長門有希が物語後半で、主人公キョンパラレルワールドから「元の世界」へと戻るための「緊急脱出プログラム」を提供する。そのプログラムの起動条件はエンターキーを押すことであり、実行・非実行のどちらを選択してもプログラムは消去される。すなわち、選択は一度きりということである。

この選択はキョンが、元の『ハルヒ』の奇想天外な虚構の世界に戻るか、『消失』の平凡な世界に進むかの人生を賭けた分岐であり、人生の岐路が「ボタンを押すか否か」という二者択一の形で現れていることを強く意識させるものとなっている。

ただし、ここで「エンターキーを押すこと」と「世界を元に戻す」ことのあいだには、確かに因果関係はあるが、その行為が直接結果に繋がっているとは感じられない。行為によって生まれる結果が重要なあまり、その行為そのものの意味が軽視されてしまっているのだ。

さらに続けて、これはゲームに近いことが論じられる。キョンがボタンを押すかというほんの些細な選択は、私たちがAボタンで選びきれない選択肢を選ぶときのように、物語とは全く関係のない、ただの軽いボタンにすぎないのである。

 

さて、土屋に関しても同様だろう。

土屋が目を閉じれば開けたときに新たな世界が生まれ得るが、土屋が目を閉じなければ世界は完全に終焉を迎えるだろう。土屋はその二者択一のあいだでハイゼンベルク協会の男に目を閉じるように頼まれる。世界が終わると言われて誰が信じるだろうか?少なくとも土屋は信じていない。"ハイゼンベルク協会"の男に目を閉じるように頼まれていても、土屋にとっては、目を閉じることも閉じないことも、それはどちらを選んでもいい選択肢でしかない。

目を閉じて開けるという行為と世界を改変するという結果のあいだには、確かに因果関係がある。だが、土屋にとってその行為は結果に繋がるとは感じられない。目を閉じて開けるというほんの些細な選択——しかもそれはどちらを選んでも変わらないように見える選択——によって世界が改変されるということは、非常に"ゲーム的"だと言えるだろう*3

 

4. 可能性の1つに生きる、ということ

「世界は複数の可能性の重ね合わせであるが、観測できるのは常にただ1つである」というフレーズが何度も登場する。量子論に詳しくないため、このフレーズが量子論的に正しいのかは私にはよく分からないが、この発想は、まさに東浩紀氏の「ゲーム的リアリズム」であるといえる。それは、私たちがサブカルチャーの文化で自然と受け入れている発想である。

 

簡単に「ゲーム的リアリズム」を紹介したい。ノベルゲームが1番説明しやすいためノベルゲームに絞って説明するが、この発想自体はノベルゲームに限らない。

ノベルゲームとは、いわゆるギャルゲーやエロゲーに代表されるようなゲームで、プレイヤーが選択肢を選ぶことによって物語の展開が変化し、それによって物語の結末も変化するようなゲームのことである。選択肢を選ぶことによって"攻略"できるキャラクターが変化するというのが特徴の1つである。

私たちは、こういうゲームをプレイするとき、1人のキャラクターの攻略に集中し、その物語を享受し、楽しんでいる。しかしながら、そうしているときですら、私たちは他のキャラクターの攻略がありえることを知っている。物語がそれ1つでないことに気付きながら、1つの物語を享受しているというメタフィクション性がある。それこそがゲーム的リアリズムである。 (cf. 東浩紀ゲーム的リアリズムの誕生』)

 

『ダイアローグは眠れない』で語られていたのは、まさにこのゲーム的リアリズムではないか。土屋は、自分の物語の、ありえたであろう可能性の1つを生きている。生きるとは、すなわち観測することである。

土屋は初め、可能性が複数あることに気付いていないが、そのことに気づき始めるのは、恋人が自分の知っている恋人でなくなったときである。そして、最後に土屋が目を閉じるとき、土屋は世界の可能性のなかに放り出され、世界の複数の可能性をその身でもって体験する。再び目を開けるとき、土屋はその中からまた可能性の1つを確率的に選び取る。

 

目を閉じて、世界の複数性に気付いた土屋が、舞台の真ん中にいる土屋——パンフレットでは「僕、あるいは人間」と書かれている者——なのではないか。そこで「僕」の横にいるのは、パンフレットで「君、あるいは世界」と書かれた者、すなわち、可能性の総体としての世界である。

「君」は何度も「僕」に、「私を見て」と呼びかける。私たちは、世界から、可能性の複数性というメタ物語から、目をそらしてはいけないのだ。可能性が複数あるという事実から目を背けたまま1つの物語に没頭することを、もはや世界は許してくれない。私たちが享受できるのはいつもたった1つの物語でしかないが、その1つの物語を享受しながらも、同時にありえる別の物語を意識しなくてはならない。

 

「僕」は、世界と手を繋いだまま、眠る。それは、目を閉じても可能性の総体がそこにあることを確かに認識するためであり、起きたときにまた可能性の1つを選び取るためでもある。

 

土屋は、目を閉じた。それは、土屋の可能性の1つの終わりだ。

物語は、幕を閉じた。それは、物語の可能性の1つの終わりだ。

この公演がすべて終われば舞台はバラされ、駒場小空間は"何もないただの空間"へと戻るだろう。それは『ダイアローグは眠れない』という一連の物語の終わりであり、すなわち、この世界の、可能性の総体の終わりである。

この世界が終わる前に、可能性の1つを観測しに行ってはどうだろうか。

*1:それはもちろん私の考察能力の向上とも関係があるので、客観的に1番いいものだとは言い切れないことに気をつけてほしい。だがそれでもなお1番だと信じている

*2:現在、駒場書籍部に1冊置かれてあるので、この11ページだけでも立ち読みすることをオススメしたい

*3:1人目のヒロインを「はるひ」と名付けたのは偶然にしては面白いと思う